イギリス人の考える残酷は、日本人の残酷とは違うのである

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イギリスで年間4万頭近くの牛が結核にかかり処分されています。
病気はアナグマに起因すると考えられており、
アナグマ大量殺戮を計画している政府に対して、本当にアナグマが原因なのか、
ワクチンで対応しているのにヨーロッパにできて、
イギリスでできないはずではないと、野党は反対。
またRSPCAを筆頭に動物保護団体、一般民衆も有名人著名人も大反対の声明を出しています。
23万人の嘆願書を集め、ロンドンでのデモ行進など大騒ぎになっています。

私も反対ですが、そこに違和感がうっすらと沸きあがります。
では食用のために毎年220万頭も殺されている牛はいいのですね。

生まれて4ヶ月前後で殺される子羊を見に
お弁当を持って子羊農場を訪れるそのメンタリティは?

メンタリティと言えば、日本人の魚介類への扱いは残酷であると
日本国内では意識されていないのでしょうか?

混乱する私と同じように思っていらっしゃる方々へ
まったくそんなことなど考えてみなかった方々へ

ここに私の尊敬する跡見学園女子大学名誉教授、
武本昌三先生のホームページの中にあるご随想にその答えを見つけました。
少々長くなりますが、私の永久保存版としても、ここに引用させていただき、
現段階では「捕まえようとすると、逃げ惑う生物に対しては残酷な扱いをしない」ことを
至近の目標として訴え続けていきたいと思っています。


生きるということは殺すということ
     ―生活と文化をめぐる随想 (89)―  (2013.05.01)

 私のイギリスでの親しい友人にデイビッドがいる。チェルトナムに近いセバン川のほとりに千坪はありそうな広大な敷地に、建築後二百年くらい経っている大きな家があって、そこに奥さんのクリスティーナと二人で住んでいる。十数年前、最初にこの家を訪れた日、六寝室の家の中を隅々まで見せてくれたあと、奥さんのクリスティーナは、私を敷地の一角にある三〇メートル四方くらいの羊の放牧場へ案内してくれた。その中には羊が十一頭ほどいた。しかし夫妻はここで牧畜業を営んでいるわけではない。

 ご主人のデイヴィツトは当時六十才くらいで、車で三十分ほどのチェルトナムにあるコンピュータ関係の会社に勤める管理職であった。羊を飼っているのは、いわば彼らの実益を兼ねた趣味であった。奥さんのクリスティーナは五十五、六才くらいであったろうか、日焼けして健康そのものの女丈夫といった感じで、羊の世話はもっぱら彼女の役目であった。その彼女がその時、十一頭のうち三頭を指さし、これと、これと、あれは、明日屠殺場へ送って、食肉にするのだと、何気なく言ったのである。私は一瞬緊張した。その私の前で、指差された哀れな三頭の羊たちは、明日の運命も知らぬげに、のんびりと草を食んでいた。

 私は、その頃、三週間近くもデイヴィツトとクリスティーナの家に滞在していたのだが、クリスティーナから三頭の羊たちのことを聞いて五日ほど経った頃、なんと、夕食のテーブルにその羊の肉の一部がラム・ステーキとなって現れたのである。夕方、いつものように裏庭のパティオでデイヴィツトとその日の出来事などをおしゃべりしながらビールを飲んでいると、やがてクリスティーナがワゴンにステーキの皿をのせて運んできた。おいしそうな匂いが食卓の上に流れた。「今日はステーキか、ご馳走だな」と私は思った。その時にクリスティーナが、「これはラムで、先日あなたに見せたあの羊の肉ですよ」と言ったのである。

 業者に頼んで屠殺してもらった羊は、毛皮をはぎ取られ、バラバラに切断されて戻され、冷凍庫に入っていた。そのうちの一部が、その日の夕食になったわけである。クリスティーナは、バラバラにされた肉片であっても、その大きさや形などで、だいたいどの羊のものかがわかるという。それを聞くと、にわかに、初めて見た日の三頭の羊の姿が目の前に浮かんできた。私は小一時間も飲み続けていたビールの酔いも一度にさめる思いで、たじたじとなった。

 デイヴィツトもそうだが、クリスティーナも動物が好きで、犬もいるし馬も飼っている。羊たちも殺された三頭を含めて、大切にして可愛がっていたのは事実である。「ひもじい思いもさせなかったし、ここでのんびり育って幸せな一生だったと思うわ」と彼女は言った。私は黙って聞いている。こんな時に、そんなに可愛がっていた羊をなぜ殺すのか、と問うのは愚問である。ここはイギリスなのだ。クリスティーナのことばも、牧畜文化からくる特有の発想で、これは稲作文化の伝統を持つ日本人にはわかりにくい。

 イギリス人を含めてヨーロッパ人は、古来、風土的な厳しい制約から、生存のためには家畜に大きく依存しなければならなかった長い伝統に支えられている。しかし、生きていくために家畜に頼るということは、動物の屠殺にも慣れるということでもあった。問題は、家畜が日本人のもっとも身近な動物蛋白源である魚介類などと違って、生物学的には人間と同じ哺乳類であることである。人間と同じく、殺せば赤い血が大量に流れ出る。そういう家畜の屠殺に慣れるということは、ヨーロッパ人の血に対する感覚が、血を忌み嫌う日本人とは大きくかけ離れたものにならざるをえない。

 しかも、かつては、家畜を殺して血を見たり血の匂いをかいだのは、専門の業者や一家の主人たちだけではなく、主婦や子供たちもそうであった。つまりイギリス人も含めてヨーロッパ人は、家族ぐるみで家畜の死体や血を見ることに慣れているのであって、その伝統は現在でも、ヨーロッパの家庭料理の中に残っているといってよい。たとえば、イギリスやフランスの街の肉屋の店頭で、あるいはスーパーマーケットのガラスケースの中に、羊や豚の頭が血のついた目をむき出しにしたままで並べられているのも、ごくありふれた光景なのである。

 日本人はしばしば、「欧米人は血の滴るビフテキを食べながら動物愛護の精神を説く」と彼らの残酷を非難する。しかし彼らは、血の滴るビフテキを「食べながら」ではなく、「食べるから」動物愛護の精神を説くのである。これは、基本的には、稲作文化の日本人が、お米を食べるからお米を大切にするのと同じことである。クリスティーナも羊を食べるから、その羊を大事にして育てた。その可愛がっていた羊を殺すのは残酷なのではない。ただ、殺すための思いやりとしては、できるだけ苦痛を与えないように、一挙に息の根をとめてやることである。イギリス人の目から見ると、だから、日本人が魚を生きたままで食べる「生け作り」などは、逆に、動物に対する極めて残酷な仕打ちということになる。

 これについては、上智大学のピーターミルワードさんが、かつて書いた日本文化を論ずる文の中に次のようなものがある。

 《このことに関しては、一人のイギリス人として、日本人の残酷な食べ方について一言抗議しておきたい気がする。私が言いたいのは、外国人に対してではなく魚に対して意図的に加えている苦しみについてである。日本には、刺身の一種で「生け作り」といわれるものがある。この「生け作り」に相当する英語はない。まあ、人肉を食べる「キャニバリズム」がそれに近いであろうか。
 しかし考えてみれば、そのキャニバリズムでも、蛮人は人間を食べるときには、少なくとも煮たり焼いたりするのであって、生きたままの人間を生で食べることは普通しない。ところが日本人は、まさにそれをかわいそうな魚に対してするのである。生のままであるどころか、生きてまだ動いているのに、刺身のように薄く切り取って食べるのである。》 (『イギリスと日本』)

 人食い人種でさえ人間を食うときには、煮たり焼いたりして生のままでは食べないのに、日本人が魚を生きたまま切り刻み、まだ動いているのを刺身にして食べるのは残酷だ、というわけであるが、このような言い方にはそれなりの説得力があるように見える。イギリス人の考える残酷は、日本人の残酷とは違うのである。

 刺身というのは、豊富で新鮮な魚と、食生活の清潔な日本人の美意識が生み出した日本独特の調理法だと思うが、「生け作り」とは、いわば、その刺身の新鮮さと清潔さを極限まで追求して、直にそれらを客の前に提供したものであろう。それも、魚介類だからこその「生け作り」である。哺乳動物の肉でも刺身にできないわけではないが、しかし、その「生け作り」はあり得ない。一般に日本人は、魚介類ならまだしも、哺乳動物を目の前で殺すようなことに対する拒絶反応は、イギリス人などとは比べものにならないくらいに強いのが普通だからである。

 ここで話を少し前に戻そう。クリスティーナのラム・ステーキが目の前に置かれたのであった。私は少したじろいだ。しかし、私はやはりそのステーキを食べなければならない。食べた。パリで初めてエスカルゴを食べた時のように、ちょっとした頭の切り替えが必要であった。「うまいか?」と聞かれたから、仕方なく、「うまい」と答えた。

 それから二、三日経った朝、朝食で食堂へ行くと、クリスティーナがちょっと外から玄関を見てみよという。行ってみると、玄関のドアの上部左右についている花寵をつり下げるための鉄のアームに、野兎が二匹と山鳩が一羽、首のところを縄で縛られてぶら下がっている。近くの農家の人が狩りでしとめたものをお裾分けしてくれたのだという。前日の夜はたまたま、私が夫妻をチェルトナムの日本料理店へ連れ出して留守であったので、そこへ置いていったのである。帰りが遅かったので、私たちも気がつかなかった。朝、電話がかかってきて、彼らも初めて知ったらしい。

 野兎と山鳩とはいえ、そのような姿を見るのは気持ちのいいものではない。新巻鮭が縄で縛られてぶら下がっているのを見るのは、私にもあまり抵抗はないが、これも文化の違いなのであろう。日本でこんなことがあったら、お裾分けどころではない。おそらく気味悪がられてしまうにちがいない。野兎の毛皮を剥いだり、山鳩の毛をむしったりするだけでも拒絶反応がある。しかし、クリスティーナは喜んでいた。特に山鳩はうまいのだと言って、満足げであった。

 旧約聖書の創世記(9:2-3)には、「地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなた方の食物となるであろう」ということばがある。キリスト教では、神がこのように動物を殺して食べることを許していると考える。だから、ヨーロッパでは、キリスト教徒たちは安心して動物を殺し、それを食べているのである。逆に、動物を殺して食べることが残酷だとして認められなかったならば、イギリス人を含めてヨーロッパ人は生きていくことができなかった。

 その「動物を殺して生きる」生活様式は、グローバル化の影響を受けて、現代の日本でもかなり深く浸透してきているようである。戦前の日本では、動物性蛋白質としては、ニワトリくらいならまだしも、いわゆる「四つ足」の動物はあまり食べなかった。哺乳動物を食べなくても、価格の安い魚介類が豊富にあったからである。風土的条件にも恵まれて、農業生産率も日本では格段に高い。麦や米の穀類を食べ、種類の多い野菜や新鮮な魚介類で、ヨーロッパとは比較にならないくらい、生存の維持が容易であった。国土の三分の二が山地でありながら、人口密度が極めて高いのは、その端的なあらわれである。

  しかし、その日本人の食生活は、戦後、日本が豊かになるにつれて大きく変わってきた。いわば、食生活の欧米化が進んできたのである。安い輸入品が増えて、牛や豚、羊などは、いまでは決して高価な食品ではなくなった。むしろ、従来の日本の魚介類よりも単価的にも手に入れやすくなっている。日本の「米食文化」が影を薄めて、欧米の「肉食文化」に近づきつつあるようである。しかし、日本では、「殺して生きている」感覚は薄い。イギリスのクリスティーナたちの場合は、自分では手を下していないまでも、この「殺して生きている」という感覚は拭いきれないであろう。しかし、日本では、肉食しながらも動物のいのちのことまでは思いが及ばない。

 もともと、動物の肉を食べるというのは、山野を駆け巡って、その動物を自分で、或いは仲間と協力して、仕留めなければならなかったはずである。仕留めた動物は、血にまみれながら、それを自分たちで解体して食料にする。動物を仕留められなければ、自分たちが飢えるだけである。否が応でも「生きるために殺す」という感覚を強く持っていたにちがいない。しかし、稲作文化では、特にその必要がなかった。だから、長い間、米穀と野菜と魚介類に慣れ親しんできた食生活に後から肉食が入ってきても、それは魚介類と同じように、スーパーなどへ行って、きれいに切り分けられて包装された肉片をお金を出して買い求めるだけである。それが動物の死体であるという感覚はない。「死体」では気味悪いから、そう思いたくもないであろう。

 日本には仏教の殺生戒が伝統的に残っていて、動物を殺すことについては、強い拒否反応がある。しかし、私たちは、動物を他人に殺させて、その死体を食べているのである。自分で殺していないから罪がないとはいえない。むしろ、そのような無感覚は、殺される動物側からみれば、自分で殺している者よりもかえって罪深いといえるかもしれない。それに、当たり前であるが、魚介類も生き物である。多種多様の魚もいろいろな貝類も、それぞれにみんな生命を持っている。動物を殺すのはいけないが、魚介類なら殺してもいいというわけではないはずである。

 改めて考えてみると、いや、考えるまでもなく、私たちは、殺生と無関係では生きていけない。仮に、一部の僧侶たちがそうしてきたように、動物や魚介類を避けて菜食主義に徹したとしても、実は、穀類や野菜などの植物もまた、みな生命である。それぞれにいのちを持って生まれ、成長してきた。それらを食べることによって、私たちは自分たちの命を繋いでいる。食べなければ私たちは死ぬ。つまり、私たちは、動物も植物も殺すことによってのみ、自分たちが生かされている。生きるということは、殺すということなのである。

 そういう事実に意識がもう少し向いていけば、或いは、日本を含めて、世界の富裕国で問題にされている大量の食料の食べ残しや放棄も、少しでも減少させるきっかけになるかもしれない。生命を奪っておいて、その事実にさえ気がつかず、食料を平気で残したり、捨てたりするということは、やはりかなり罪深いことである。殺される側からすれば、食べもしないで捨てるくらいなら始めから殺さないでほしい、といいたいところであろう。

 私たちが動物や植物を殺しているのは、食料を得るためだけではない。家や家具や紙などは、木の死体であるし、革靴も毛皮などももとは動物の身体の一部である。着ている洋服やシャツ類なども、ほとんど動物や植物のいのちを奪うことによって作られている。「人間は、意識的もしくは直接的な殺生にかかわらずとも、他の生命の犠牲がなければ生きていけない生物」なのである。(金岡秀郎『文学美術に見る仏教の生死観』)NHK出版、2013)

 それだけに、不殺生戒を守ろうとする仏教徒は、真摯であればあるほど、この「殺さなければ生きていけない」現実に深く悩み抜いてきた。仏教国のチベットでは、人間が死んだらその死体を鳥に与える「鳥葬」の習慣が広く行われているが、これは、生きているうちは他の生命を犠牲にしてきたのだから、死んだらせめて身体ぐらいは鳥に施したいという死後の「布施行」の精神である。これも一方的に未開の習俗として退けるよりは、そこにも深遠な祈りの姿があることを、考えてみるべきなのかもしれない。




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プロフィール

ノーマンテイラー邦子

Author:ノーマンテイラー邦子
ロンドン在住/通訳・翻訳業
保護猫延べ6匹、保護犬一匹、庭にキツネ3匹ほど
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